戦時下のコンペ

| 林 |

 その後戦争が始まります。戦時中のコンペ作品ですが、やはり、扇形に直交する軸線が表れています。

「大東亜建設忠霊神域計画」 鳥瞰図 1942年
「大東亜建設忠霊神域計画」 鳥瞰図 1942年
「大東亜建設忠霊神域計画」 国民広場から本殿を望む 1942年
「大東亜建設忠霊神域計画」 国民広場から本殿を望む 1942年

| 藤森 |

 直交する軸線の先にはシンボリックな象徴(富士山)があります。そして、これはサンピエトロ広場を模した広場です。そして、こちらは伊勢神宮です。打放しコンクリートで伊勢をつくろうとしています。

 広場から神殿にいたるブリッジは一段低い位置にあります。これは、サンピエトロ広場に立った時に神殿がぐっと近くに見えるような効果をねらったんだと思います。いろいろ学んだことは全部入れるということです。

 丹下さんにインタビューした時に、「もし直すことができるのなら、ここ(「国民広場から本殿を望む」図の左側手前建物の柱と梁が取合う部分)を直したい」と言いました。びっくりしました。「なぜですか?」と尋ねたら、「2つ納まってない点がある。四角い梁と丸い柱がうまく合わない。もう1点は梁が太く見えすぎる」と。柱、梁で設計すると絶対梁が巨大になる。誰がやってもそうなるんです。だけど、その梁をいかに細くみせるかということと、四角い梁と丸い柱がつながっている部分を克服したいと言いました。

| 林 |

 ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマ以来、柱はずっと円柱ですね。

| 藤森 |

 そう、モダニストが柱を考える時は、絶対、円柱です。コルビュジエは梁を隠すために天井を貼っています。ヨーロッパの人は梁の意識はないですが、日本の人は梁の意識があって、またドミノの案では丸い柱でなくても成立することを知っていました。丹下さんは、コルビュジエと日本の古くからの建築を学んで、新しいものをつくるという、徹底した人でした。

「在盤谷日本文化会館建築懸賞設計」 鳥瞰図 1942年
「在盤谷日本文化会館建築懸賞設計」 鳥瞰図 1942年

付記

事前の打合せの時に藤森さんがこうおっしゃっていました。
「戦時中のコンペは、前川(國男)さんにしても坂倉(準三)さんにしても、和風のスタイルなんだけど、後の建築に繋がっていない、謂わば捨て仕事。だけれども、丹下さんの凄いところは、全部本気。それぞれ後の建築につながる仕事をしているところです。」