丹下健三とは?

| 林 |

 今日は、まず最初に「丹下健三とは?」ということで、神谷先生にお話を伺おうと思っています。よろしくお願いします。

| 神谷 |

 丹下先生がどんな人となりか、ということについて、私なりの見方ですが、4つあります。

1つ目は「学び」の達人である。
2つ目は「時代の流れを読む」達人である。
3番目は「粘り強い」人物である。
4番目は「わがまま」者である。

ということでございます。ひとつずつご説明したいと思います。

 まず、「学び」の達人ですが、丹下さんが勉強した時代というのは、旧制高等学校で3年間勉強し、それから大学へ入る。そういうシステムですが、当時寮があって、そこに入ってみんなで一緒に生活する体験をすることが非常に多かった。もちろん自宅から学校に通っている人もいましたが、一般的な風潮としましては、文化系の連中、例えば法学部とか、経済学部とか、そういう文化系の連中と理科系の連中、工学部へ行ったり、医学部へ行ったり、農学部へ行ったりというような、そういう人たちが、入り交じってお互いにディスカッションをする。文化系の連中が理科系の勉強もするし、理科系の連中が文科系の勉強もする。哲学も音楽も芸術も理科系の連中が勉強して、文科系の連中と議論しあうというしきたりがありました。ですから丹下さんはそういう雰囲気の中で学んで、結果として文学だけではなく経済もそれから政治も学び、特に哲学について造詣が深い。よく勉強した方です。それは丹下先生が設計を進める中で大きな下地になっている。単に建築のデザインだけを考えるのではなくて、設計する対象を非常に広い視野で考える。観察し理解する姿勢を持っていたといえます。

 それから、次の「時代の流れを読む」達人であるということですが、戦争中から戦後にかけて時代はどんどん変わっていくわけですけど、その変化を基本的な視野から状況判断をする、丹下さんはそういう力を持っていました。将来の日本がどういうふうに社会構造や都市・建築構造を変えていくのか、それを見通す力を持っていました。その結果、さまざまな新しい都市計画、建築計画、デザインを発表することができた訳です。それから、今日の結論にも関係するのですが、住民達が一緒になってまちづくりをする「コーポラティブ・ハウス」。そういったシステムもこれからは必要であると、晩年述べていました。

 3番目の「粘り強い人物」であるというのは、例えばこの建物で申しますと、この下のピロティ部分、10018mの非常に広い面積の空間ですが、そこが今、貴重な空間になっています。県民の方が自由に建物の中に出入りし、庭にも出られる。自由に建物を利用することができる。当時、香川県知事の金子さんが「県民の方が自由に気兼ねなく、県庁舎に出入りできるような、設計をして欲しい」と希望を出されたわけですけど、当初、そのような予算があらかじめついていたわけではない。だけど、これは理想的なあり方である、時代の流れに乗る考え方である事を見通して、それが実現するまで、粘りに粘る。その粘りの姿勢が非常に強いのも丹下さんの非常に大きな特徴のひとつです。単に予算が納まらないからあきらめるというような、あっさりした考え方ではなく、やりたいと思うことを粘りに粘り、実現していこうという姿勢を常に持っていました。

 最後に、「わがままもの」であるということです。ちょうど私が結婚する時に、先生に媒酌をお願いしたんですが、スピーチの中で、建築家は「わがままもの」でなければ、ということを堂々とおっしゃっていました。私がその話を先生の隣で聞いていた時に、丹下さんの足がガタガタ震えているんですね、新婦側の親戚にどう思われるのかというのを気にしながら、ガタガタ震えている。案の定、彼女の親戚はカンカンになって怒っていた。わがままとは何事かと。(笑)やはり自分のやりたいことが正しいと信じて最後までやり抜く、さっきの粘り強さと一体となってわがままぶりが、丹下さんの設計の中で、実現する過程で出てくる。結果としてそれが見事な成果をもたらしたということです。

| 林 |

 今回の講演会に際し、改めて、丹下さんのことを勉強させてもらいました。藤森先生が丹下さんにインタビューをした記事の中に印象に残っている部分がありました。「どのような本を読んでいましたか?」という質問の答えなのですが。

| 藤森 |

 丹下さんに、高校時代、大学時代どういう本を読んでいたかと聞くと「読んでない本はないと思う」、つまりほとんどの本を読んでいると言いました。特に哲学の本は、ハイデッガーの本など、訳されるとすぐ読んだそうです。マルクス主義は高校時代からものすごく読んでいて、ハイデッガーのような本も読んでいたんですが、むこうで、新しいのが出るとすぐ訳をつけて読む。本当に乱読をしたみたいです。

 ちゃんと身についていることは恐るべきことです。教養だけでなく、自分の思想が立つことがたまにあります。マルクス主義から離れる時ですが、その時にハイデッガーに救いを求めて、ハイデッガーの理論をもとに有名な「ミケランジェロ頌」を書くのですが、それは本当に神谷先生が言われたように、そういうことが身に付いている人なんです。

建築家 丹下健三の評価について

香川県庁舎の評価について

| 林 |

 それでは、藤森先生に建築家丹下健三の評価について、それから「香川県庁舎」の評価についてお話しを伺えればと思います。

| 藤森 |

世界に認められた建築家丹下健三

 世界的に言えば、丹下さんの日本における評価というのは分かりやすい。丹下さん以前は世界に通じる日本の建築家はいなかった。前川さんとか、坂倉さんとか直接コルビュジェに学んで、ヨーロッパへ行ったんだけれども評価されなかった。コルビュジェにあこがれ、ひたすら本を読んで理解して、丹下さんが日本で最初に世界に通用する。

 それ以降、丹下さんのお弟子さんたち、そして現在の我々までが世界に出ている。日本にとってはそんなスケールです。

 もう一つ、世界についても重要なことがありまして、これは丹下さんから評伝に書くなと言われて書かなかったんですが、ブラジリアに行った時にニーマイヤーらが歓迎会を開いてくれた。その時ニーマイヤーが言ったのか、コルビュジェに次のリーダーは誰だと聞いたら「タンゲ」と言ったらしい。これは丹下さんから聞いたんですが、でもラテンの人は平気でお世辞を言うので、これは書くなと言われて書きませんでした。

 ただ、客観的に見ても、CIAMが8回目くらいで解体するんですが、解体する席に長老として丹下さんが呼ばれていた。その会の前にコルビュジェが丹下さんを呼んでいるんです。丹下さんはコルビュジェに会ってからCIAMに出る。その席でCIAMの解体を若い連中が決議した訳です。その会の後、丹下さんはニューヨークへ行くと、すぐ空港にギーディオンとグロピウスが丹下さんを出迎えて、最初の話が「CIAMはどうなったか」と。丹下さんが「解体しました」と言うと、2人が非常に残念がっていたそうですが、そういう地位にありました。

構造表現主義を実現

 あと、客観的に見てル・コルビュジェのできなかったことを丹下さんがやっています。それは鉄とコンクリートという近代の技術をダイナミックに使った表現をするということですが、それをコルビュジェはできなかった。構造表現主義といいますが、近代建築の構造表現主義をコルビュジェは夢見ていたんですが、出来なかった。ただ、案は「ソヴィエト・パレス」で出す。「ソヴィエト・パレス」で出したのは、アーチから吊るという画期的な案なんですが、実現できなかった。コンクリートでマスな表現はできたが、ダイナミックに宙を飛ぶような表現はできなかった。

「ソヴィエト・パレス」 ル・コルビュジエ 1931年
「ソヴィエト・パレス」 ル・コルビュジエ 1931年

 それを丹下さんが代々木の「東京オリンピックプール」で実現する訳なんです。僕は代々木の「東京オリンピックプール」は実現した「ソヴィエト・パレス」だと思っています。まず吊構造、それからアーチの追求と、丹下さんは文章を書く時に座席をアーチと書いた。アーチで吊るという考え方はあそこで見事に実現したのではないかと思う。

東京オリンピックプール 1964年
東京オリンピックプール 1964年

 コルビュジェが亡くなるのは東京オリンピックの翌年だと思いますが、客観的にみてコルビュジェの出来なかったことに挑むのは日本の丹下さんとアメリカのエーロ・サーリネンです。
 そういう意味では20世紀後半の世界を代表する建築家だと思います。


柱・梁の表現を極めた「香川県庁舎」

「香川県庁舎」は、そういうダイナミックさはないんですが、ただ、柱と梁を打放しでやるということについては、丹下さんが「広島ピースセンター」でやり、その後、この建築で、コンクリートが丁寧なちゃんとした建築に使っていけるということを、またコンクリートの表現ができるということを実現したのはこれが最初です。コルビュジェのコンクリートは壁なんです。相当荒っぽい感じです。 これを丹下さんが柱と梁の構造=ラーメン構造をやり、この影響が直接的にアメリカへ行きます。ルイス・カーンの打放しなどは、明らかに「香川県庁舎」に学んでいる。ポール・ルドルフも見に来ている。少なくとも戦後のアメリカの主流はこれに間違いなく学んでいます。

「香川県庁舎」 1958年
「香川県庁舎」 1958年
「香川県庁舎」 1958年
「香川県庁舎」 1958年